TSUKUCOMM-29
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藪野:中学生の時の美術の成績は3でした。授業の時、先生に「みんな、こんな絵を描いちゃだめだよ」と悪い見本にされたこともあります。だから、絵描きになるなんて考えたことがなくて、早稲田大学の理工系に進学しました。でも、大学に入ってから幾つか面白いことがあって。1つは、金山康喜、須田国太郎という2人の画家の作品と出会って感銘を受けたということです。もう1つは、自分でも急に絵が描きたくなったこと。なぜかというと、建築や工学には、法規であるとか、材料であるとか、現実の制約がすごくあります。でも、絵には制約が全くない。どこへでも、どの時代にも行けるし、誰にでも会えます。しかも、描いた絵描きが亡くなってからも、その作品は語りかけてきます。そういうことにすごく魅力を感じました。この気持ちを父親に話したら、返事の前に、油絵具一式がどーんと送られてきましてね。油絵の描き方がわからなかったので、失敗を繰り返しながら、自己流で描き方を身に付けていきました。玉川:日本では美術教育を受けたことがないのですね。スペイン・マドリッドのサン・フェルナンド美術学校プロフェソラードに留学されていますが…。藪野:留学は初め、マドリッドの工科大学で、チュリゲラというバロックの建築を中心に研究する予定だったのです。でも、プラド美術館でベラスケスやゴヤに出会ってから変わったのです。ベラスケスの絵には、圧されるような力を感じました。あれほど力強くて気高いものに出会ったことはなかったので、衝撃的でしいきました。玉川:ワンカップ大関の謎が解けました(笑)。二紀会には10歳ずつくらいの世代の塊があって、それぞれ各世代に対する面倒見がいい。私は、藪野さんたちに出会わなかったら、絵描きになっていないと思います。それまで自分が絵描きになるとは考えていなかったけれど、皆さんとお付き合いさせていただいているうちに、「自分もここで勝負したい」と思うようになりました。藪野:私が二紀展に出展し始めたのも大学1年生の頃で、先輩方によくしていただきました。二紀会のメンバーとは、今でも途切れることなく、仲間として友人として付き合い続けています。70を過ぎても20代の人とも一緒にね。そういう集まりは珍しいと思います。玉川:よく学生にも言うんですけれど、教授だの審査員だのと言っても、会場に絵を並べてしまえば、外から来る人には関係ありません。見る人が「その絵が好きか」「嫌いか」というだけです。だから、絵描きなどの芸術家は年齢を越えた関係ができるのでしょう。それは逆に言うと、肩書きに頼れないということでもあります。僕は、日頃学生に偉そうに絵の事についてさまざま言っているわけだから、そういう場では表現として負けないように学生を力でねじ伏せるぐらいのつもりで、新しい作品に取り組んでいます。玉川:藪野さんは、画家であるお父様の影響で画家になられたのですか?玉川:藪野さんと出会ってからもう40年くらいになります。私が21歳で、初めて二紀展に出品した時に、会場で声を掛けていただきました。その後、もうすでに画壇にデビューした30代の先輩たちの「私風景」というグループ展に参加させていただいて…。藪野:そうでしたね。私は32歳でした。玉川:キャリアのある人たちが、僕らみたいな駆け出しと一緒にグループ展をやるということは、当時としては、とても革新的なことでした。しかも、銀座のかなり大きな画廊で、大きな作品を展示する展覧会でしたから。藪野:大胆でしたね。玉川:それに参加させていただいたのはすごくラッキーなことで、とても嬉しかった。朝早くからトラックに乗って、作品を集荷して回り、先輩たちが絵を描いている現場を覗き見できたのも面白かったです。藪野さんの部屋はかなり広くて、片側の壁全面が本棚だったのを覚えています。藪野さんというと、当時から、ブルーの空のイメージがすごく強かったのですけど(※藪野氏の作品の大きな特徴は「藪野ブルー」と呼ばれる澄んだ青い空)、ワンカップ大関の中に青い顔料を溶いて、空を塗っていたのがすごく印象的でした。あれは何だったのですか?藪野:たぶんその頃はテンペラと油彩の混合でやっていました。いろいろやりましたね。最初の頃は、エンコスティック(蜜蝋)であったり。むしろ一番難しいのは、油絵具だけを使うことです。だんだん、その難しいことをやるようになって大学時代の出会いが人生を決めるTSUKUBA COMMUNICATIONS08

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