TSUKUCOMM-37
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本学に進学した理由を聞かせてください。 高校生の頃には、演劇に関わって生きていこうと決めていました。でも徳島から大阪や東京に出て、俳優の養成所や大学の演劇学科で他のライバルたちと同じことをしても、自分には勝機はないのではないかと考えました。 一方で、私の強みは何時間でも演劇について考え、調べられることでした。自分がこれほどまでに魅了されている「演劇」は、世の中の人たちにとってどんな価値があり、なぜ何千年も経た現在まで残っているのかという興味から、演劇史を学ぼうと筑波大へ進学しました。人文学類では西洋史を専攻し、卒業研究で、シェークスピアの少し後の時代、イギリスで初めて女性として俳優になった10人について調べました。その後プロ初脚本・初演出作品となった『琥珀の中で眠るもの』という舞台戯曲は、このうちの1人がモチーフになっています。脚本家になることは、いつ頃から考えていたのですか?  大学時代は、都内で映画のエキストラをしながら、演劇の世界に入る手立てを模索していました。その頃の悩みは、演劇で生きていきたいのに、自分にできるかどうかわからないということでした。でも何かを目指す時に、才能の有無について悩んでも、それを判定する目印なんて無いのだから、こんなことで立ち止まっていないで、自分の得意なことと演劇を結びつけようと考え、脚本家に方向が定まりました。 高校の演劇部では、部員数や上演時間にあわせてオリジナルの脚本を書いていましたし、大学生になってからも、創作は好きで、書くことを続けていました。このまま春になったら就職活動を始めなければならない大学3年の終わりに、将来を賭けて、温めていた脚本を劇団青年座に送りました。それが認められて、大学4年の春から劇団員として正式に採用されることになりました。劇団員としての生活はどんなものでしたか?  卒業に必要な単位はほとんど取っていたので、卒業研究を進めながら週5日は東京の劇団に通うという生活でした。東京とつくばを行き来する高速バスには何度乗ったことか。車内ではいつもひどい寝姿だったと思います。 在学中よりも卒業してからの1年間が人生で最高に貧しくて、劇団スタッフとはいえ、ほぼ見習いみたいなもので給料もなく、アルバイトと実家からの仕送りで生活していました。 母親には「アルバイトをするために大学まで出したと思いたくないけど、演劇をするために大学に行き、今はまだ生計がたてられない、ということならば了承する」と言われたのを覚えています。一時的な下積みならば仕方ないと、理解を示してもらえたことはありがたかったです。活躍の場を舞台、テレビ、映画へと広げていらっしゃいます。 映像の仕事を始める前は、舞台の演出助手をしていました。実は大劇場の演出助手の方が、小劇場の演出家より稼ぎがよいこともあって、先輩から「優秀な助手は重宝がられて、演出家になるタイミングを逸してしまう」とも聞いていました。そこで助手になる時に、5年で辞めようと決心していました。5年目に突入したある日、思い立って公募雑誌を買い、その中で見つけた「日本テレビシナリオ登龍門」に応募しましOBOG脚本家 演出家 藤井清美氏1993年在学中に劇団青年座文芸部入団、2000年に日本テレビシナリオ登龍門優秀賞を受賞し、映像の世界にも活躍の場を広げる。手がけた主な作品に、連続ドラマ「ハクバノ王子サマ」、「恋愛時代」、「ウツボカズラの夢」、映画「L change the WorLd」、「インシテミル 7日間のデス・ゲーム」、「るろうに剣心」シリーズ、「ミュージアム」など。2017年6月には初のオリジナル長編小説「明治ガールズ 富岡製糸場で青春を」をKADOKAWAより出版。PROFILEふじいきよみ徳島県生まれ筑波大学第一学群人文学類入学同卒業1971年1990年1994年真実がドラマをつくるテレビドラマや映画、舞台の脚本を手がける藤井清美さんは、大学時代には西洋史を専攻しました。筑波大で歴史を学ぶと決めた高校生の自分を褒めたいと話します。その真意とは?08 TSUKU COMM

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