TSUKUCOMM-39
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高校時代から注目された選手でしたね。進路についてはどのように考えていましたか。 子供の頃からサッカーのとりこでしたが、当時はプロリーグもありませんでしたから、体育教員になるのが夢だったんです。その意味で筑波大は進学先の第一希望でした。テレビで流行っていた青春学園ドラマの、スポーツに打ち込む先生と生徒の姿にも憧れましたし、なにより一生、サッカーのそばにいたかった。 大学卒業間際に日本代表に選ばれました。体育教員の夢がかなう直前でしたが、選手として認められたことで、もう少しサッカーを続けてみようと、社会人リーグの企業に就職しました。練習は夕方からで、日中は社員の健康管理をする部署に所属して、疲労と事故の関連性のリサーチなどに携わりました。大学で学んだ体育の専門性にはこだわりがありましたね。育の専門性にはこだわりがありましたね。選手から指導者、さらに指導者育成へのキャリアを選んだきっかけはなんだったのでしょう。選手選手を続けを続けながらながらも、体も、体育教員育教員、いつ、いつかは教はえる立える立場にな場になりたいりたいというという思いは思いは消えま消えませんでせんでした。指導者への興味も、根底にはそれがあります。 入社して間もなく、ドイツのケルンにあるプロクラブ、1.FCケルンに短期留学させてもらいました。今も昔もドイツサッカーは世界トップクラスです。練習、トレーニング、施設、全てが素晴らしくて、将来は絶対にここで勉強する、と勝手に決心してしまったんです。それでまず、会社に戻ってから、筑波大の大学院でコーチ学を学びたいと申し出ました。 社会人学生として大学院に通いつつ、ドイツへの留学も準備しました。再び訪れたドイツでは、大学と並行して、トップチームの練習に参加したり、子供たちにサッカーを教えたりと、充実した日々を送りました。帰国後、筑波大で修士論文を仕上げ、蹴球部の指導にあたりました。そのころ入学してきたのが長谷川(健太)や井原(正巳)、中山(雅史)です。自分が勉強や井原(正巳)、中山(雅史)です。自分が勉強してきたことをぶつけると、彼らはすぐに反応してくれて、チームとしても関東大学リーグでの優勝を果たしました。こういう形で指導方法を確立してしていけたいのはとてもラッキーでした。社会社会人リー人リーグでのグでの選手経選手経験、筑験波大で学んだコーだコーチ学チ学、ドイツドイで勉強勉したスしたスポーツポーツ教育学教育学やサッカー体験、このステップがあるからこそ今の自分があると思っています。日本のスポーツの中でも特にサッカーは、早くから指導者養成に取り組んでいますね。 全国に広がる選手育成のシステムなど、サッカー界は他に先駆けて人材養成に力を入れてきました。ただ1980年代後半、いろいろ勉強した自分の目には、指導者養成プログラムはかなり不十分なものに映りました。 今思えばなんとも僭越なことですが、当時の指導者養成を担当されていた先生方に、日本のサッカーを変えたい、と提案したんです。幸いにも快諾してくださって、ドイツ方式をベースに日本流の実践的プログラムを考案したところ、それが好評で、指導者養成は変わっていきました。Jリーグ発足、ワールドカップへの初出場やた。Jリグ発足、ワドカップの初出場や日本のサッカーを変える筑波大在学中に日本代表選手に選ばれながらも指導者の道を進んだ田嶋幸三さん。その強い決意が学びを拓き、指導者養成の方法論に新しい風を吹き込みました。さらに託された期待に応えるべく、日本サッカー界全体の発展を牽引しています。TSUKUBAOBOG08 TSUKU COMM

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