TSUKUCOMM-41
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■「私をなくす」という生き方の極意仏教には「神」への信仰はありません。普通の人々が修行、つまり自己改革をしてより良い人間になることが、仏教が目指す究極の到達点です。そのキーワードは「無我」「無常」。人は誰でも心安らかに暮らしたいものですが、社会的地位や財産、家族などを「私のもの」だと執着してしまうと、それらを失ったり、思うようにならないことへの不安が募ります。また、どんなに裕福でも、病気や老いから逃れることはできません。そもそもブッダが、王子という地位や妻子を捨てて修行の旅に出たのは、そういった不安から解き放たれ、真の「安心」を得るためでした。そうして仏教がたどり着いたのが、無我、つまり「私をなくす」という考え方です。「私」とは、生まれた時から持つ肉体や精神を、自分がそう認識しているだけで、客観的な実体として存在しているとは言えず、そこにこだわっても仕方がありません。ブッダが説いたのは、「私」という思いを減らすこと。そして、人の死など、物事には必ず終わりがあり、移ろい、無常だということ。それは理屈ではわかっていても、容易には受け入れられないでしょう。けれども、神のような超越的なものにすがるのではなく、現実を受け入れ、ひたすら自分の心の内で考えなければなりません。滝に打たれたり坐禅を組まなくても、その葛藤こそが修行なのです。オリジナルの仏教は極めて合理的で、現代の私たちも十分に理解できる思想です。■インドからチベットへ仏教が生まれた紀元前5世紀ごろのインドには「書く」という手段や文化がなく、ブッダの教えは弟子たちの口伝によって広められました。その後、書物としても多くのものが作られましたが、それは異なる国や時代を越えて伝わる過程で、当然、変化していきました。今、私たちがイメージする仏教、お葬式をしたり、極楽浄土や生まれ変わりといった考え方も、後に付け加えられたものです。仏教は6~8世紀に全盛期を迎え、チベットやネパール、日本にも伝わりました。しかし13世紀ごろになると、ヒンドゥー教やイスラム勢力が台頭し、インドでの仏教は衰退していきました。一方、チベットでは、民族のアイデンティいにしえの人々との遭遇仏教のルーツに残された思索の痕跡を辿る仏教の起源はインドです。しかし、ヒンドゥー教化やイスラムの侵入などの中で、その教えはアジアに広く継承され、チベット民族は今も自分たちのアイデンティティとして大切にしています。紀元前に説かれたブッダの言葉は弟子たちによって語り継がれてきましたが、現在、書物として残っているのは、様々な解釈や他言語への翻訳を経た後の時代のもの。それぞれの時代における地域の人々の暮らしや思想が詰まったタイムカプセルにも似ています。人文社会系吉水 千鶴子教授Chizuko Yoshimizu

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