TSUKUCOMM-41
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同年、株式会社学習研究社(現 株式会社学研ホールディングス)に入社し、「歴史群像」編集部を経て「ムー」編集部所属。2005年、5代目編集長に就任。世界のミステリーや不思議現象を知的エンターテイメントとして発信し続ける傍、テレビ番組やイベントへの出演、コラム執筆なども精力的にこなす。信じるか信じないかはあなた次第。PROFILEみかみたけはる青森県生まれ筑波大学自然学類卒業1968年1991年いいし、アマチュア研究家から大学教授まで登場できるんです。それが「怪しさ」として人を惹きつけるんでしょうね。筑波大にはそういう考え方を養う土壌があったのでしょうか。1980年代半ばに、筑波大でニューサイエンスの国際シンポジウムがありました。ニューサイエンスって今では死語ですが、要するに欧米の近代科学の方法論ではなくて、東洋思想みたいなものも取り入れて全体主義的な概念で科学を捉え直そうという動きのことで、ちょっとしたブームになっていました。その国際シンポジウムは、スペインで第1回が開催されて、2回目がつくばでした。筑波大のフランス文学や哲学の先生たちが、その旗振り役だったんです。それで筑波大に興味を持って、進学しようと思いました。筑波大にはいろんな都市伝説があって、それで新入生を脅かしたりしたものです。宿舎には幽霊話がいくつもありましたし、秘密の生物実験施設で人面犬がつくられているとか、地下に「第4学群」があって、そこは軍事基地になっていて、いざ核戦争が起こったら、理系の学生は兵器開発に、体専(体育専門学群)は兵隊として送り込まれる、なんて話がまことしやかに伝わっていました。実際、第4学群の標識があったんです。どうやら当初は第4学群もつくる予定だったらしいですね。そう聞くと、筑波大もなかなか怪しい所ですね。ご自身は学生生活を満喫されましたか。今だから言うと、宿舎でもサークルでもずいぶん酒を飲まされましたよ。酔って暴れて松美池に飛び込んだりね。高校時代はバレーボールをやっていて地区大会優勝もしたんですけど、筑波大の部活はレベルが違いすぎて、サークルに入りました。そしたらメンバーが100人ぐらいいて、とてもバレーボールにならない。それで2年生の時に、ワンダーフォーゲルを始めました。車はあるし、どこかに行きたくて。山登りや川下りをいろいろやりました。特に屋久島は過酷でしたね。スコールみたいなものすごい雨の中を決死の覚悟で登って屋久杉を見てきました。学業は、理論物理で、基本的にはゼミが中心でした。4年生になっても週に4日とかゼミがあって、これが大変でした。もし戻れるなら、学生時代に戻りたい。人生における夏休みの大半は大学時代に使ってしまうのではないでしょうか。お金はないけれど、時間はたくさんあるし、責任もない。将来への不安もなくて、いちばん楽しめる時期だと思うんです。だから、今の学生たちも、良い意味でも悪い意味でも、大いに遊んで欲しいです。もちろん、人に迷惑をかけたりするのはダメですけどね。若いって素晴らしい。ぜひ今という時を楽しんでください。色紙右下の文字はヘブライ語で「こんにちは」の意

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