TSUKUCOMM-42
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Branding1912(明治45)年、東京高等師範学校の学生だった金栗四三が、第5回オリンピック(ストックホルム 1912年)のマラソンに、日本人初のオリンピック選手として出場することになりました。スポーツシューズどころか、まだ日本では靴を履く習慣がない時代、金栗は足袋の底を3重に改良して大会に挑みましたが、完走することはできませんでした。後の回想で、次のように述べています。「日本は當時固いアスファルトや、コンクリートや石道はなく、柔軟な泥道でした。固いコンクリー道を普通の薄いタビ底のタビで走れば、足の関節や筋肉に故障が起こりやすく、私もストックホルムの走路で膝関節を痛めました」(「マラソンの思出」『体育の科学』1956年より)。金栗は、その後もランナーとしてオリンピック入賞を目指すとともに、箱根駅伝の開催など、競技スポーツの普及と女子体育の振興に取り組みました。筑波キャンパスには、「金栗四三の練習用の足袋」が展示されています。 本学のブランディングは、平成21年に筑波大学のアイデンティティ(UI)の確立を目指すための、「筑波ブランド」構築の検討を始めたことに端を発します。“筑波らしさ”=“筑波ブランド”を包括し、ブランドスローガンである「IMAGINE THE FUTURE.」と共に本学が学内外に伝えたいメッセージです。想像しよう、未来を。地球の、環境の、社会の、未来を。想像できなければ、創造はできない。この星の未来は、失敗できない。創造しよう、未来を。共に生き、持続できる、開かれた未来を。その扉をあける、挑戦者になろう。“國際オリンピック競技大會には從來日本選手を派遣すること無之候ひしが。(中略)我が國よりも選手を派遣せんとの計畫を立てられ昨秋羽田運動場にて其の豫選會を擧行せられ候處本校地理歷史部第二年生金栗四三氏は二十五哩マラソン競争の選手として羽田横濵間往復に二十五哩を僅々二時三十四分時間に疾走して第一等の成績を得たれば東京帝國大學法科四年三島彌彦氏と共に日本選手として派遣せらるゝ事と相成りしは過ぎぬる二月の事に候。”「彙報 東京高等師範學校だより金栗選手渡歐」青海生『教育』 第351号(1912年)筑波大学附属図書館収蔵筑波大学のブランディング

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