TSUKUCOMM-42
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用することが柔道の基本。体格的に劣る日本人が次々と相手を投げ飛ばすことに、外国人は一様に驚いたといいます。一方で嘉納は、学校の教科だった「体操」に、武道や西洋のスポーツを融合し、「体育」を構築しました。さらに、年齢・性別や運動能力に関係なく、またお金をかけずに国民みんなができるスポーツ、すなわち「国民体育」として、水泳や長距離走などの普及にも腐心しました。■自分を高めるためのスポーツさて、日本にオリンピックが紹介された3年後の1912年スウェーデン大会には、最初の代表選手2名が派遣されました。その一人がマラソン選手の金栗四三です。東京高等師範学校の学生だった金栗は、全校行事の長距離走大会で、校長の嘉納に見出されました。以来、本格的に長距離走に取り組み、マラソンの世界記録を出すまでになりました。当時の日本ではまだ長距離用シューズが普及しておらず、独自に改良した足袋を履いての記録達成です。金栗はオリンピックに3回出場しましたが、猛暑や雨による体調不良や、ペース配分の失敗などのため、一度も完走はできませんでした。この経験から、のちに、一生懸命練習して敗れるのは決して不名誉なことではなく、むしろ賞賛すべきである、と説いています。マラソンの父といわれる金栗は、箱根駅伝を創設したことでも有名です。コース上には旧所名跡が多く、そこを走れば地理や歴史の勉強にもなるという発想です。また、走る・歩くといった動作は最も基本的な運動で、年齢を重ねても各自のペースで続けることができることから、自ら全国各地を走り、長距離走を推奨しました。目標を持って走ること、そのために努力することで達成感が得られ、品位も向上すると考えたのです。結果だけにこだわらない、人として成長するためのスポーツ、という思想は嘉納の教えに通じています。■次世代へ伝える無形のレガシーオリンピックにおける復興や平和というメッセージは、高度経済成長期には、交通網や施設などハード面の整備という形で具体化されました。これらはいわゆる「レガシー」として残ってオマーンオリンピック委員会より本学に寄贈された盾

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