TSUKUCOMM-46
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ばかり回されるようになりました。もちろん患者を看取るのはつらいです。でもある時、いったん入院させた患者さんが自宅に戻ってきて、手を握って言われたんです。「自分の部屋で好きなブラームスを聴きながら死にたい」って。ある年齢を越えれば、それなりに社会的な役割は果たしているし、だったら最期のところを平和に、輝かせる仕事を誰かがやらなければならないと思いました。そのうち、賛同してくれる医者やスタッフも現れて、介護施設を作ることもできました。患者さんやその家族との様々なエピソードを出版されていますね。当初は、家族の揉め事に巻き込まれるのは面倒だと思っていたんですけど、すぐに頭を切り替えて、それを楽しむようになりました。他人の家をドアの隙間から覗いている感じですね。不謹慎かもしれませんが、そうやって見ていると、どの患者さんにも物語があって、もともと文章を書くのは大好きだったので、それを書きとめていくうちに、出版のお話をいただいて、ドラマ化までしてしまいました。死と向き合うプロセスは、人生を振り返る時間です。特に高齢者の場合は、死そのものよりも、その前の苦痛や残される家族を心配します。機械につながれて1秒でも長く生きるよりも、他にやりたいことがあるはずで、それを少しでも実現させてあげることで、本人も家族も納得できるんですよね。医者としても、なるべく自然な形で、死亡診断書に「老衰」と書き、家族には「大往生でした」と言ってあげたい。見せ方、捉え方で、死は必ずしも敗北ではなくなると思うんです。ところで、学生時代の筑波大はどんな場所でしたか。実家は龍ヶ崎で、小学生の頃に筑波大ができました。グランドが土じゃなくてゴムでできてる、なんて聞いて、驚いて見に行ったりしました。偏差値も低かったし、それまでは実家の自転車屋を継ぐ気でいたんですけど、東京へ行かなくても大学へ行ける、自分のためにできたんじゃないかって勘違いしちゃって。医者を目指したのは、子供の頃に肺炎で死にかけたことがきっかけです。1浪してなんとか入学しましたが、正直、辛い場所でした。授業についていけなくて2年留年しましたし、一生懸命やったのに、研修医としての評価も散々でしたからね。対人関係もあまりうまくいかなくて、勉強しに行くというよりも、気に入らない先生をなんとかしてやりたい、なんて気持ちで大学に通っていた時期もあります。とにかく居場所がない感じでした。これからやりたい医療や活動について聞かせてください。50歳を過ぎて結婚したのですが、他人と暮らしてみて初めて、自分が変わっていることに気づきました。一種の発達障害だったんです。それがわかってからは、それまで自分がうまくいかなかったいろいろなことも腑に落ちて、楽しく生きられるようになりました。一見、マイナスに思えることも、視点が変われば輝きだす。だから、これからは発達障害の人たちの支援もしていきたいと考えています。困っている時に誰かが手を差し伸べてくれるというのは、どんな場面でもあることです。でも発達障害の人たちは、その手を拒否してしまったり、気づかずに見過ごしてしまうんです。支援する側の接し方を変えることで、一歩を踏み出せる人も増えるはずです。今、大学でなんとなく居心地悪く感じている人も、引きこもったり悲観的になる必要はありません。誰だって、居心地の良い場所が見つかれば、それぞれの個性を発揮することができるんです。学歴 1992年3月 筑波大学 医学専門学群 卒業 2002年4月 筑波大学 博士課程医学研究科 修了職歴 1992年3月 筑波大学附属病院及び県内の中核病院にて地域医 療に携わる 2002年4月 訪問診療専門クリニック「ホームオン・クリニック つくば」開設 2003年9月 医療法人社団「彩黎会」設立、理事長に就任その他 2004年 日本民間放送連盟賞ラジオ報道部門・最優秀賞受賞 (診療活動を紹介した茨城放送報道スペシャル) 2009年10月 小学館より「看取りの医者」刊行 2011年12月 「看取りの医者」 大竹しのぶ主演でドラマ化されるPROFILEひらのくによし

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